『交野の都、郡津』郡津駅前の石碑にはたくさんの情報が!
改札を出てすぐのところに、石碑があります。
その石碑は、駅から交野国際交流会館の方向に向くと目に入ってきます。
土台は、立方体。
「交野の都 郡津」と刻まれています。
京阪交野線・郡津駅前 交野市松塚、とあります。
そして市民憲章の「和」
街角の再発見
平成元年6月
KATANO-NO-MIYAKO
KOUZU
土台の立方体の上には円柱が。
次には三角柱が。
三角柱の一面には
うづらなく
交野のみ野の 草枕
いく夜かり寝の
数つもるらん
藤原 基氏
古代の郡津は郡衙の門前であったことから郡門と記されていましたが、江戸末期に今の郡津に改められました。
東高野街道、磐船街道が通る交通の要衝で茶屋が立ち並んでいて大変賑わい奈良・平安時代は「交野の都」でした。
交野遊猟の宮人もしばしばこの地を訪れ詩歌を詠むなど風情を楽しみました。
貝原益軒も「南遊紀行」で「香津の茶屋」を紹介しています。
とあります。
郡津の地は交野物部氏の祖先が天野川沿岸で稲作を始めた弥生時代の終わり頃から拓けたところでした。
大化改新(645年)より交野の地にも条里制が敷かれその中心である五条通の郡津は交野の郡衙(郡の役所)が置かれました。
郡津神社境内は白鳳時代郡司が交野地方最初の寺院として建立した長宝寺跡で出土品から当時の壮観さがうかがえます。
三角柱の上には・・・
円柱の上部をカットしたようなデザインに。
「星のまち交野」のサイトによりますと、「平成元年6月 管理者:フジサンケイグループ、寄贈:松下電器産業(株)」とのことです。
郡津が「交野の都」であることを、いろんな角度から伝えてくれているこの石碑。
なんと情報量の多いのでしょう。
まだの方は、一度じっくり眺めてみてみてはいかがでしょう。
【関連記事】
記事・撮影:お菊
取材先:郡津駅前
お菊過去記事はこちら
藤原 基氏
古代の郡津は郡衙の門前であったことから郡門と記されていましたが、江戸末期に今の郡津に改められました。
東高野街道、磐船街道が通る交通の要衝で茶屋が立ち並んでいて大変賑わい奈良・平安時代は「交野の都」でした。
交野遊猟の宮人もしばしばこの地を訪れ詩歌を詠むなど風情を楽しみました。
貝原益軒も「南遊紀行」で「香津の茶屋」を紹介しています。
とあります。
郡津の地は交野物部氏の祖先が天野川沿岸で稲作を始めた弥生時代の終わり頃から拓けたところでした。
大化改新(645年)より交野の地にも条里制が敷かれその中心である五条通の郡津は交野の郡衙(郡の役所)が置かれました。
郡津神社境内は白鳳時代郡司が交野地方最初の寺院として建立した長宝寺跡で出土品から当時の壮観さがうかがえます。
三角柱の上には・・・
円柱の上部をカットしたようなデザインに。
「星のまち交野」のサイトによりますと、「平成元年6月 管理者:フジサンケイグループ、寄贈:松下電器産業(株)」とのことです。
郡津が「交野の都」であることを、いろんな角度から伝えてくれているこの石碑。
なんと情報量の多いのでしょう。
まだの方は、一度じっくり眺めてみてみてはいかがでしょう。
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取材先:郡津駅前
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