【カタノテツ】交野の鉄道ものがたり:file.41 京阪1000系(Ⅱ)
交野を走る鉄道のことを、新旧おりまぜながら、『明円勝(Masaru Myoen)さん』と、時々『駐在員さん』の写真等のご協力により紹介しております。
今回は『明円勝(Masaru Myoen)さん』によるカタノテツです。
カタノテツfile.41
京阪1000系(Ⅱ)
昭和12年にロングシートの 「1100型」は、当時世界的流行に乗って登場した鉄道省の「モハ52型」と類似の流線形電車として、天満橋三条間を走りだし、翌年にはドア間にクロスシートを設置した「1000型(Ⅱ)」が登場し短い期間ではありましたがロマンスカーとして走りました。
その後時代は戦時色に染まり「1000系(Ⅱ)」も、次第に一般車として扱われる様になりました。
鉄道省では「モハ52型電車」そして蒸気機関車にも流線形が採用され「C5343」が試作改造、次いで「C5520~C5540」が新製量産機として四国を除く全国に配置され、中でも名古屋機関区に配属された罐は「臨時特急燕」を牽引することもありました。
そして電気機関車では「EF551~EF553」が製作され、それぞれ風を切って走ると思われましたが、運用する現場において、蒸気機関車は流線形カバーにより運転室の通風が悪く熱がこもり他の機関車と比べてかなり暑いことが乗務員に嫌われ、検査修繕の際にはカバーの開閉に手間がかかり作業者から嫌われて、戦後間もなく一般形に改造されました。
一方で電気機関車は、流線形の効果が蒸気機関車と同様に殆ど確認出来ない上に、片側のみが流線形であった為に、蒸気機関車と同様に方向転換が必要で不便なために、生産数は3両のみとなり華々しい活躍は長続きしませんでした。
流線形は昭和39年東海道新幹線0系によって、その効果が十分発揮された様に思います。
1969年12月
交野線 天野川橋梁
1010
交野線 天野川橋梁
1010
1000系晩年の姿です。
1000(Ⅱ)型は連結面側の運転台を撤去して、1100型と共に片側運転台先頭車専用車となり、1200型と1500(Ⅱ)型は全ての運転台を撤去し中間車となりました。
1000(Ⅱ)型は連結面側の運転台を撤去して、1100型と共に片側運転台先頭車専用車となり、1200型と1500(Ⅱ)型は全ての運転台を撤去し中間車となりました。
そして編成組成の柔軟化の為に、流線形先頭部のアンチクライマーを撤去ジャンパ栓を装備して、編成の中間にも組込む事が可能になりました。
ドアについては、この頃交野線で活躍した車両は3ドアであったが、1000系は3ドア化改造が実施されず、廃車まで2ドアでした。
1969年6月
京阪本線
天野川橋梁
下り馬急
1108
京阪本線
天野川橋梁
下り馬急
1108
1000系の馬急仕業は足回りを引き継いだ700系(Ⅱ)にもよく見られました。
1969年
中宮-星ヶ丘
1008
交野線でも流線形の姿を見る事が出来ました。
1969年
中宮-星ヶ丘
1010
ドア間の長いロングシートが印象的でした。
1970年6月7日
中書島
1006
三条発宇治行き
中宮-星ヶ丘
1010
ドア間の長いロングシートが印象的でした。
中書島
1006
三条発宇治行き
ナンバーの上辺りをよく見ると、鳩マークを取り付けるフックが見えます。
戦後は車両不足の中、特急としての活躍の場を得て特急マークを掲出した時期もありましたが、1700系の登場により一般車となりました。
寝屋川工場に保存されていた3000系(Ⅰ)の鳩マーク
1917に掲出された鳩マーク
京阪電車は一時期「奈良電」そして後の「近鉄京都線」と総合乗入れをしていましたが、昭和43年12月廃止後は、三条-宇治間を中書島でスイッチバック運転されていました。
1000型(Ⅱ)・1100型は、昭和46年廃車後に足回りと電装品を700型(Ⅱ)に譲りましたが、その700型(Ⅱ)は廃車後に車体を1000系(Ⅲ)に譲り歴史が繋がっています。
私は交野で育ちましたが、毎回見たことのない車両、風景に感激しております。
今では想像もつかない昔の交野線の風景を見て毎回胸が熱くなっております。
これからも楽しみしております。