逢合橋って交野市民けっこう知ってると思うけど「落合橋」っていうのもある!
そう、逢合橋は私部西にある交野を流れる一級河川天の川に架かる橋で、その名前から七夕伝説にちなんだスポットとしても知られています。
新型コロナウイルスなどの影響もあってここ数年開催されていませんが以前は、毎年、逢合橋七夕まつりという逢合橋がイルミネーションされたりする地域のイベントなども開催されていました。
逢合橋でちょっと前置きが長くなりましたが、では、こんな名前の橋があることをご存知でしょうか?
その名も・・・
落合橋
交野市私部南1丁目付近、駄菓子屋ゆめみこぞうさんの近く、畑中ちびっこ広場のすぐ横。
前川に架かる橋が落合橋です。
落合橋
昭和31年(1956年)と刻まれていたので今から67年前に落合橋はできたようです。
この橋を渡って、私部から河内磐船駅方面へ一本道があるので、昭和31年に今の橋ができる以前にもきっと橋はあったのだと思います。
(画像クリックで交野市役所ホームページ「まちの名に歴史あり~総集編~」のページへ)
付近の地名に、タデや官田という地名もあることから、このあたりも古くから残る交野の歴史とつながりがある所になっています。
タ デ
私部の落合橋から私市へ一本道が走っており、この付近をタデと呼んでいます。
落合橋から私市道を南へ少し行くと「大門」と呼ばれる田があり、ここは私部の豪族であった北田久左衛門慰好忠が大和郡山城主の筒井順慶と争った場所だと北田家系図にあります。
落合橋から私市道を南へ少し行くと「大門」と呼ばれる田があり、ここは私部の豪族であった北田久左衛門慰好忠が大和郡山城主の筒井順慶と争った場所だと北田家系図にあります。
この争いで私市方面からの攻撃に備えるため、この地域に出城的な館(たて)があったのではないかとも言われ、館がなまって「タデ」と呼ばれたという説があります。
官 田(かんでん)
現在の第一中学校近くの田んぼが広がる地域一帯を官田と呼びます。
官田という地名の由来は二つあり、一つはこの場所が周辺の地形よりも一段と高く、川も夏枯れになることから、乾田だったのではないかという説です。
また奈良時代には、天皇がお食べになるお米を作っていた田んぼを官田といい、それが地名になったと言われる説もあります。
現在も田んぼが多く残る地域ですが、ここのお米を奈良時代の天皇が召されていたのかもしれません。
・・・平成24年4月~26年3月まで、「広報かたの」で連載されていた「まちの名に歴史あり:平成24年11月1日号〈私部〉タデ・官田・上ノ山」より引用(連載当時の記事は交野市役所ホームページに掲載されていますので、興味ある方はそちらもあわせてどうぞー)
この橋の名前が「落合橋」となっている由来は定かではないのですが、落ち合うという言葉には、
・一つ所で出合う。
・打ち合わせておいて、ある場所で一緒になる。
・川が合流する。
-weblio辞書より引用
という意味があります。
たしかにこの橋があるのは、前川と南川の合流地点に架かっているので、「川が合流する」という落ち合うにも合っています。
上述のように橋向こうにいわれのある地名もあることから、人の往来も昔からずっとあった場所なのだと思うので、そういう意味でも落合橋の名前はなんというかこうピタッとしっくりくる名称だなぁと。
(ハラダ@交野タイムズもよく、天野が原方面から私部方面へ通る時、この道よく通ります)
交野市立第一中学校の通学路のところにもなっているから、今だと生徒さんの待ち合わせポイントになっていたりもするのかもしれません。
逢合橋に落合橋。
地元の地名やスポットには全てではありませんが、それぞれ名前がついていたり、由来があったりするので、興味深いです。
記事:ハラダ
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