こんなところに石碑が!風景になじみすぎている『交野町』の石碑は「石清水八幡宮三宅山荘園墾田之跡」だ!
昔のひとの道標になっていたり、なにかの跡であったりと、交野の歴史の息吹を感じ取ることができます。
河内森駅から歩いてすぐのところ。
まっすぐ進めば168号線に交わるところや、JRの踏切などがあります。
柵から下をのぞいてみると・・・・・
(石碑です)
道路と反対側、住宅側にが「交野町」と刻まれています。
道路側からみると、上のほうは「石清水・・・」と書かれています。
季節的に、草の勢いがすごい時期だったので、下のほうは埋もれてますが、交野タイムズの過去記事によりますと「石清水八幡宮三宅山荘園墾田之跡」と記されていることがわかります。
「交野地方には石清水八幡宮の荘園があった。天暦3年(949)のことで三宅山一帯1400町歩にわたる広大なものである。」
(星のまち交野の解説より)
石清水八幡宮は、こっちですよ〜っていう道標というわけではなく、「このあたりは荘園の跡地ですよ〜」っていうことのようです。
また、下記のようにわかりやすい解説もありました。
平安時代に入ると、朝廷の力が弱まる一方、各地の豪族や寺社が強くなっていった。 貴族、寺社等は、自分達が農民を使って開墾した土地や、他からの寄進を受けたりした土地を増大していった。このような朝廷の力の及ばない土地を荘園といった。
天暦三年(949)、三宅山一帯が石清水八幡宮の荘園となり、その範囲は、交野地方の山々一帯1400町歩(私部山、寺、森、私市、星田山一帯)に及ぶ広大なものだった。それに、山年貢を収める倉庫・荘園の管理をする役人の住む住宅地など、6町歩、荘司が荘園内の農民を使って耕作する田(佃)が、23町歩も付随していた。未耕地が次々開発されて墾田となっていくと、人口も増え物産も増大して行った。
当時、寄進された荘園は荘園の管理人(荘官)によって運営されていた。荘官は直営田をもらい荘民に耕作させていた。この土地を佃といい、私市の千手寺(観音寺)に寄進された荘園が院田(いんでん)であり、地名として残った。
(星のまち交野の解説より)
石碑に刻まれている「墾田」の文字。
墾田と聞くと「墾田永年私財法(743年に発布)」を思い出します。
「こんでんえいざいしざいほう〜」って、ちょっとリズミカルに身体で覚えちゃってますよね〜。
743年に発布はしたものの、「まだまだ農民が自ら開墾し自分たちの土地に」という風にはいってなかったのですね。
この風景になじんだ石碑から、この交野の地の歴史がかいま見れた気持ちになれました。
あ!見慣れたお姿が!
石碑は「かたの街道さんぽ。」の寄り道で発見しました。
さんぽさんご協力ありがとうございました。
まだまだ紹介できていない歴史を感じる石碑があるかもしれない!
引き続き調査をすすめていきたいと思います。
記事/撮影:お菊
取材先:石清水八幡宮三宅山荘園墾田之跡お菊過去記事はこちら
















