交野さんぽ。×交野タイムズ コラボ企画【かたの街道さんぽ。】東高野街道の巻 その5 〜伝説力士の石碑〜
『交野さんぽ。』さん。
交野を散歩し、その模様をユーチューブで配信。
交野のいろんなところに出没されているので、「あ!さんぽさんだ!」って感じでお見かけすることも多いのです。
『交野さんぽ。』はこちら↓
以下「さんぽさん」と呼ばせていただきます。
さんぽさんの『交野さんぽ。』は、ほんとにこちらも散歩しているみたいな気分になるのが特徴&魅力。
それならいっそのこと、さんぽさんと交野タイムズで一緒に散歩しよ!したい!
コラボじゃコラボじゃ、コラボレーション!
交野の街道をさんぽしよう!
そして交野の歴史っぽいことにもふれてみよう!
知らず知らずのうちに、もっと交野が好きになっている!?
交野の歴史に詳しくなっている!?
そんなテーマでいってみます!
まずは「東高野街道の巻」
ではでは、リリースされた記念すべき第1回目めの『かたの街道さんぽ。』をまだ視聴していない方は、こちらから予習(復習?)を!
↓↓こちらです〜↓↓
そして、こちらは第2回目。
↓↓↓
そして、てくてくコツコツ積み上がり・・・こちらが3回目
↓↓↓
あーんど、こちらが4回目
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バックナンバー紹介が長引きましたが、
\最新はこちら!/
交野タイムズ記事では、ちょこっと振り返ったり、記事でしかお伝えできないことや、見どころポイントなどを紹介したいと思います。
今回の歴史ポイントはこの3つ!
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四馬塚(しばづか)
現在開拓が進んでいるこの周辺は、昔は四馬塚(しばづか)という地名でした。
「しば」は「四」つの「馬」と書きますが、江戸時代は芝生の「芝」だったそうです。
開拓が始まる前の平成30年に、このあたりを発掘調査したところ、東高野街道沿いに「側溝(そっこう)」と呼ばれる溝が見つかりました。
この溝は水田の区画整備と灌漑(かんがい)用に使われていて、鎌倉時代から江戸時代に何度も「掘り直し」が行われていたことがわかりました。
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一里塚とは、街道の一里(4キロ)ごとに土を盛り、上に木を植えたものです。
残念ながら塚があった跡は発掘されていませんが、江戸時代の絵図には明記されています。
ちなみに、先ほど説明した「四馬塚」の「塚」とは、この一里塚のことをあらわしています。
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大井川万吉(おおいがわまんきち)碑
この石碑は、この地区出身の強豪力士、大井川万吉の記念碑と言われています。
この石碑は、この地区出身の強豪力士、大井川万吉の記念碑と言われています。
河内相撲から江戸相撲へと出世した、すごい力士だったそうです。
ちなみに、石碑には「すぐ京、八(や)はた道」とも彫られています。
これは「石清水八幡宮」への方向を示していて、この石碑が道しるべも兼ねていたことがわかります。
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お菊の複雑な心理が吐露されている!
なにかの2周年をお祝いしたりしている!
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交野さんぽ。
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記事:お菊
取材先:東高野街道
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