交野・松塚に、悲恋のうたを刻んだ石碑がある!〜風葉和歌集〜
とある歌を詠んだ石碑があります。
(道をはさんでその石碑をみたところ)
(向かって左は郡津駅の方向)
(向かって右は、交野病院があります)
地図でいいますとこちら↓

平成7年に出来たとのことですが、27年たった2022年も風化することもなく健在です。
かつきゆる うき身の沫と成ぬとも
誰かはとはん 跡の白波
再会をずっと待っていた娘さんのお気持ちを想像するときゅんっとなってしまいます。
昔も今も、悲しい恋、ハッピーな恋、いろいろ恋の話ってあったのですね〜。
この娘さんのすごいところは、そんな悲しい気持ちをも、歌に残されたところ。
「表現」することで、現代の時代にも言い伝えられ残っています。
歴史をふりかえるとき、史実や言い伝えとして残っていることの断片をもとに、そのスキマの部分を「想像」で補わなくてはいけない面も多かろうと思います。
でも、その「想像」の部分も「今と昔」をつなげる部分として、興味深いです。
交野に残る、断片を引き続き調査し、拾っていきたいと思います。
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記事:お菊撮影:お菊
取材先:郡津 風葉和歌集石碑
お菊過去記事はこちら
かつきゆる うき身の沫と成ぬとも
誰かはとはん 跡の白波
風葉和歌集
巻十四・恋四
土台のところには、解説も刻まれています。
今は、埋め立てなどで、景観も変わっていますが、平安時代にはこんな悲恋の物語がおこっていたのですね。土台のところには、解説も刻まれています。
この歌は平安時代、交野郡司の娘が殿中納言と再会できないことを嘆きつつ詠んだ歌。
とのことです。
解説中に出てきますお相手の『殿中納言』が誰をさすのか(『交野少将』という恋多きひと、という説もありますが)断定は未だできないようです。
しかしながら、交野郡司(現在の市長のような役職)の娘さんが、悲しい思いをされていたことは、今もこのように石碑で現代のわたしたちに伝えられています。
とのことです。
解説中に出てきますお相手の『殿中納言』が誰をさすのか(『交野少将』という恋多きひと、という説もありますが)断定は未だできないようです。
しかしながら、交野郡司(現在の市長のような役職)の娘さんが、悲しい思いをされていたことは、今もこのように石碑で現代のわたしたちに伝えられています。
この悲恋物語の舞台が、古代天の川の流路で、長渕と呼ばれたこの松塚地区付近であるとのこと。
再会をずっと待っていた娘さんのお気持ちを想像するときゅんっとなってしまいます。
昔も今も、悲しい恋、ハッピーな恋、いろいろ恋の話ってあったのですね〜。
この娘さんのすごいところは、そんな悲しい気持ちをも、歌に残されたところ。
「表現」することで、現代の時代にも言い伝えられ残っています。
歴史をふりかえるとき、史実や言い伝えとして残っていることの断片をもとに、そのスキマの部分を「想像」で補わなくてはいけない面も多かろうと思います。
でも、その「想像」の部分も「今と昔」をつなげる部分として、興味深いです。
交野に残る、断片を引き続き調査し、拾っていきたいと思います。
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記事:お菊
取材先:郡津 風葉和歌集石碑
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