倉治の『かご池跡』にある石碑にきざまれた、石つき唄。かご池で夜が明けた祝いの歌!
交野久御山線に面しており、向かって右手に行くと万代倉治店や、機物神社の鳥居のところがあります。
向かって左手に行きますと、セブンイレブン倉治7丁目店や、ビッグサン、津田駅の方面となります。
地図でいいますと、ここ↓
関西スーパーの風景にナチュラルにとけこんでいる、大きめな石碑。
「かご池跡」
と刻まれた大きな土台。
(少し斜めから見た石碑)
そしてその上には
「石つき唄」
と称された唄が紹介されています。
まず、気になりポイントの「かご池」ですが
星のまち交野 のページ内
「よもやまセミナー Q&A」に解説が掲載されています。
Q:倉治の籠池(かごいけ)について
A:倉治から津田に出るバス道、がらと川を越して右側に少し高い堤防があり、面積0.74haの池があった。堤防の幅は広く、池の端には大きな柳の木などが生い茂り、雄大な池に見えていた。
Q:池があった・・・と言うことは今は無くなっているのですか?
A:昭和51年に池を埋め立て「レストラン:フェスト」となり、2~3年前に更地となり、今は関西スーパーの建設が始まっています。
※2022年現在は「関西スーパー」となっています。
※2022年現在は「関西スーパー」となっています。
Q:なぜ、池の名前を「かご池」と呼ばれていたのですか?
A:水がよくもれる。ザルのような池だという意味で、水もちが悪かったのであろう。
No.17(2009.5.6)より引用
今は埋められていて見ることはできませんが、この場所の「かご池」が存在していたのですね!
また、歴史健康ウォークの解説には
「近くで良質の粘土が採集できず、はがね(粘土のフィルムで池の側面を覆うこと)が施されず、水位が増すと、かごに入れた水のようによく水が漏れたためにこの名がついたという。そして直ぐ西の外池に流れ込んでいた。」との記載も。
そして、石つき唄。
この唄は昔、倉治の「若い衆」が晩、津田の女性の宅に遊びに行くことが楽しみやった。
時間も遅くなって帰って、ここの堤に来たら交野山の頂きに朝日が上りかけていたという歌詞で、お嫁入りとか、新築祝いには、必ず出る祝歌である。
と歴史健康ウォークの解説にありました。
なんと!めでたい祝歌だったのですね。
↑交野市史、民俗編にはこのような解説も。
婚姻などをお祝いするめでたい歌だったようですね。
「おおあげ、おおあげ」で盃も飲み干し、大盛りあがりな宴が想像できます。
はじめは「かご池」ってどんな池だったのだ?
石つき唄ってどういう状況なのだ?など、疑問だらけだったのですが
少しずつ、ひもといていかれていきました。
※今回も貴重な資料として「星のまち交野」
及びページ内の「よもやまセミナー Q&A」や「週間 考歴民(これみ)」などを参考に引用させていただきました。
ありがとうございます!
街にこのように、歴史の足跡が残っているのは、現代でも昔の交野を想像するきっかけとなり、とてもおもしろいことです。
引き続き、交野の今と昔をつなぐべく、調査していきたいと思います。
今は埋められていて見ることはできませんが、この場所の「かご池」が存在していたのですね!
また、歴史健康ウォークの解説には
「近くで良質の粘土が採集できず、はがね(粘土のフィルムで池の側面を覆うこと)が施されず、水位が増すと、かごに入れた水のようによく水が漏れたためにこの名がついたという。そして直ぐ西の外池に流れ込んでいた。」との記載も。
そして、石つき唄。
わしの若いときゃ
津田までかよた
倉治かご池で夜が明けた
おもしろや
おもしろひょうたんや
おおあげおおあげ
津田までかよた
倉治かご池で夜が明けた
おもしろや
おもしろひょうたんや
おおあげおおあげ
この唄は昔、倉治の「若い衆」が晩、津田の女性の宅に遊びに行くことが楽しみやった。
時間も遅くなって帰って、ここの堤に来たら交野山の頂きに朝日が上りかけていたという歌詞で、お嫁入りとか、新築祝いには、必ず出る祝歌である。
と歴史健康ウォークの解説にありました。
なんと!めでたい祝歌だったのですね。
大阪の東北部に所在する交野市において、古くから祝い事の酒宴には欠かせない唄です。
婚礼の夜、夫婦の契の盃が交わされると、宴は最高潮に達します。
「とりの盃」という朱塗りの大きな盃が回ってくる時に、この唄がうたわれる。
「おおあげ、おおあげ」のはやしでグッと酒を飲み干したのだろう。
元々、この石つき唄は、家普請の柱の下の基礎石を、やぐら(よいとまけ?)という設備を使って突き固める際にうたわれたもので、「おおあげ、おおあげ」も、やぐらに付けられた道具(胴突き)を持ち上げる掛け声であった。(交野市史、民俗編より)
婚礼の夜、夫婦の契の盃が交わされると、宴は最高潮に達します。
「とりの盃」という朱塗りの大きな盃が回ってくる時に、この唄がうたわれる。
「おおあげ、おおあげ」のはやしでグッと酒を飲み干したのだろう。
元々、この石つき唄は、家普請の柱の下の基礎石を、やぐら(よいとまけ?)という設備を使って突き固める際にうたわれたもので、「おおあげ、おおあげ」も、やぐらに付けられた道具(胴突き)を持ち上げる掛け声であった。(交野市史、民俗編より)
↑交野市史、民俗編にはこのような解説も。
婚姻などをお祝いするめでたい歌だったようですね。
「おおあげ、おおあげ」で盃も飲み干し、大盛りあがりな宴が想像できます。
はじめは「かご池」ってどんな池だったのだ?
石つき唄ってどういう状況なのだ?など、疑問だらけだったのですが
少しずつ、ひもといていかれていきました。
※今回も貴重な資料として「星のまち交野」
及びページ内の「よもやまセミナー Q&A」や「週間 考歴民(これみ)」などを参考に引用させていただきました。
ありがとうございます!
街にこのように、歴史の足跡が残っているのは、現代でも昔の交野を想像するきっかけとなり、とてもおもしろいことです。
引き続き、交野の今と昔をつなぐべく、調査していきたいと思います。
記事:お菊
撮影:お菊取材先:倉治 かご池跡
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