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交野にかつて京都みたいに道の名前が!五条通りの石碑と京阪電車〜交野の今昔物語〜

交野に「四条通り」や「五条通り」など京都の街のような通り名があったのは、ご存知でしょうか。

 

 今も道路には、名前がついていますが「国道1号」とか「府道7号」とかですよね。

「四条通り」とか「五条通り」という通り名は、京都市内や奈良市内に今でも残ります。

かつて交野にも「四条通り」や「五条通り」があったようです。

こちらの石碑には「古代天野川地方條里区画五條通」と記してありました。

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古代とはいつの時代のことなのか、四条通り、五条通りがあるのなら、一条、二条、三条はどこなのか、六条以降はあるのかないのか、いろんな疑問が湧いてきます。

ここはやはり、交野の歴史はここを見ろ!と言われている「星のまち交野」のサイトを覗いてきました。

 探してみると、ありました!!

 

こちらのサイトによると奈良時代前期に行われた大化改新令により、条里制の区画を設けることになり一条から十条まであったようです。

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(画像クリックで星のまち交野の記事へ)

交野市の天の川付近の条理制の話としてゴッドファーザー交野さんの交野の歴史関連グワっと網羅されている星のまち交野の情報によると、その地域は、南は、私市天田の宮から、北は枚方市禁野(ひらかたしきんや)-枚方市駅付近までの間だったとのこと。

大化の改新令は、645年。

蘇我氏とか中大兄皇子とか藤原鎌足とかが登場する時代です。

現在2022年ですから、1377年前。

そんな時代から交野は人が住んでいたことを知れる場所です。

一条通りが私市というのも歴史ロマンをなんとなく感じさせられます。

今は、車がメインで通る道ではなく、一本奥まったところになっています。

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この道の奥に石碑があります。

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実はこの道、京都から高野山への参道の一つの「東高野街道」にもなっています。

もちろん車もなく、馬か徒歩で京都から高野山まで、参拝に行っていた時代。

そんな時代の人たちは、何を考え、どうやってこの道を通っていたのでしょうね。

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今は、背後に京阪電車が通っています。

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撮影:ひろちゃん
取材場所:交野市郡津
ひろちゃんのこれまでの記事はこちら

ライター:katano_times katano_times


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