徳川家康と聞いて、交野市を連想できたヒトはかなりの歴史通かもしれません。

家康と交野の関係とは!?
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(写真はJR河内磐船駅にある交野市お出かけマップに登場する家康さん)

家康。人生最大のピンチ!
伊賀越えの時に交野を通ったという事実!


時は戦国時代、1582年6月21日。京都の本能寺に宿泊していた織田信長が明智光秀の謀反にあってこの世を去ったという「本能寺の変」。

その本能寺の変発生の際に、織田信長の同盟者であった徳川家康は堺にいたそうで、明智謀反の知らせを知った家康は、超マッハで自国の浜松に帰ろうとしました。

(なんで家康が堺にいたかというと、安土城で信長に謁見した後に堺見物に行っていたからだそうです)

しかし、ここは大阪の堺。

浜松までめっちゃ遠いです。

しかも、明智の軍勢に見つかると信長の同盟だった家康もきっと生命のピンチを迎えることになります。

めっちゃピンチ!

堺→浜松まで隠密に、そして速やかに移動しなければなりません。

そうや!
伊賀越えのルートがあるやん!


と追っ手に見つからない危険が少なく、浜松までの最短ルートにもなるであろう伊賀を経由するルートでの堺脱出を試みた家康。

そんな時、交野で家康をかくまって、おもてなしをして脱出のサポートに尽力されたヒトがおったそうな!

それが星田の平井家のご先祖様!

迫るくるであろう追っ手から家康の浜松戻りをサポートするため、食事を提供して道案内をされたそうです。

家康ひそみの藪
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当時、家康が潜んだという竹藪が星田の妙見小学校の近くに現在も史跡として残っています。

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(家康は一旦この藪に隠れて、村長だった平井家に連絡をとったと言われています)

平井家のサポートもあり、無事に伊賀まで辿りついた家康は、伊賀でも宮田家の警護を受け無事に母国浜松まで帰ることができたというのが、徳川家康の伊賀越えの話になります。

そんな、平井家と宮田家。

時を越えてここ交野の星田で集まったそうな!

(画像クリックで京都新聞の記事へ)

京都新聞の記事によると、郷土史家の杉本さんという方が家康一行を道案内したと伝わる土豪の子孫2人を引き合わせたとのことで、その両名が星田の平井家に集まったんだそうな。

400年を越えての両家の出会い。

家康の伊賀越えのあの時、あの瞬間ではきっとお互い知った仲ではなかったと思いますが、当時の共通の想いが現在に繋がっていくというのを考えてみると、なんだかとてもスゴイことなんじゃーないのか!と思います。

あの時、家康さんはこーだったらしいですよ。

伊賀ではこんな話が残っています。

なんていう歴史話の共有がきっとあったんだと思います。

ちなみに、その後、大坂夏の陣で秀吉方を攻めるために大阪城へ進軍する家康は、ここ交野の星田に陣を張ります。

これもきっと伊賀越えの時の平井家のサポートがあっての出来事だったんじゃーないでしょうか。

ハラダ@交野タイムズ